昭和59年12月10日 月次祭



 今日御本部で行われます報徳祭を、合楽から沢山お参りがあって、参拝のおかげを頂かれて却って、このお祭りに間に合っておられる訳でございましょうが。以前は2代金光様3代金光様お二柱の報徳祭としてお祭りが仕えられましたが。今はそれが霊人様方の対するれいのお祭で、少し性格が変わったようですけれど、私共はやっぱりどこまでも四神様、そして3代金光様の御信心のお徳に、迎え祀らして貰うという名義で、お祭を拝みまたこの16日にはその報徳のお祭が奉仕される訳でございます。
 今日何時もの事ながら、色々な新聞とか雑誌なんかの、堀田先生が受け持って読みに来てくれます。今日は中大日報という宗教新聞ですけれども、合楽の合楽だよりの100号記念かなんかの新聞からこんげに出とりました。その事を取り上げて合楽の御比礼の模様、合楽理念の素晴らしい事などを、相当大きな記事にして出ておる所を聞かして貰いましたが、本当に信心んによっておかげを頂くと言う事は、お道の信心ほど素晴らしくて適切に教えられて、またそれがおかげの受けられる信心はないとまぁ思うのですが。
 合楽理念はそういう生粋のところをいよいよ理念として、助かりの人間助かりの理念として説いておるんだと言う事が、まぁ実にあのう中外日報取っておる訳ではございませんけれども。あのそういう記事を載せて出す分を送って来たというのでございますが。私は本当にあのう、本当に信心によって助かりを求める人が、本当に合楽理念に触れたらこういう素晴らしい信心があっただろうかと、びっくりするほど感じるだろうと私思んです。本当にあのう助かりの信心であり。
 しかもそれが魂の世界まで助かって行けれる、手立てというものがそれがま解き明かしてある。合楽から合楽理念とか信楽とか、いろいろな御本が出されておる。その事も記事に書いてございましたが、どの本を読まして頂いても本当に助かりたい、本当の信心がしたいと言う人が、私は合楽に合楽の信心を分かられたら、そういう気がするのじゃないかと思いますが。お互いこうして日々御理念の中に生かされて、御理念を実験実証しながら信心を進めておる者にとっては。
 もういよいよもって、その御理念の素晴らしさというものを身に付けて、いよいよ神恩報謝の心が強うなって行く事を楽しみに、信心させて頂かなけりゃならんと思います。私は御理念を体得した覚えたと言うだけではなくて、本当に言うならば自分の体検を通して、日々の生活を通して分かって行くと言う、そこには必ずいわゆる神恩報謝の心、また神恩報謝の生活が出来て行かなければおかしい。分かれば分かるほど神恩には分かった、分かったらその神恩に対し奉るいわゆる報謝の心に。
 報いたてまつる心というものが生活の中に、だんだんはっきり出て来なければならない。それが自分の信心の成長というものを、分からしてもらう手立てだと思う。合楽には毎日参っております。合楽で言われる事はもうほとんど聞き覚えた、だからその聞き覚えた御教えをも元にして日常生活がなされる。そこから必ず実証が生まれて来る。私はもう合楽の方達はどうでも、この実験実証を喜び楽しみにさせてもらう、信心にならなければならんと思う。
 今日お道の新聞を一緒に読んでもらったんですれども、以前に私に聞かせて頂いた事がありますが、甘木関係の先生が甘木の親先生の事を、一言いうておられるところがございます。宮の陣の将軍梅林に御参拝になった時に、もうそれこそその将軍梅が満開の時だったらしいですね。いろいろ短冊にその花の美しさ、その薫りの素晴らしさを詠った歌が、短冊に下げてあったと言うのです。で甘木の親先生がね、花の美しさやら薫りの素晴らしさを分かる人はあるけれども。
 そこまでに至るいうならば、根の所に対する表現というものがない。お道の信心と言うのは、花も有り難い薫りも有り難いが、その根を大切にし根を分らして貰うのが、お道の信心だと言う事を言われた言う事を、有名なお話をその先生が書いておられましたが、何でもやっぱりそうです。日々の信心生活の中にも、それこそ良い事悪い事皆良いと言う頂き方を頂かしてもらうためには、それには必ず形に現れて来た事だけではない。それにはそれだけの根があるのだ。
 その根のところを分からしてもらい、改まるを改まり開くところは磨きね。おかげを頂いて行かなければならない。私は皆さんも例えば、合楽で言われる御理念の素晴らしさというものを皆さんが感じ、そしてその御理念が日常の生活のどういう場合であっても、御理念にもとづく生き方、いわゆるいやも御理念と言う前から合楽では成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にする。成り行きそのものが神様の御働きなのだからと、教えられまた私自身もそれをそうだと信じて頂いて参りました。
 成り行きを尊ぶ成り行きを大切にする、だから実に大切にいわゆる大切に出来ない様な事柄もある。損になる事もありゃ苦しい思いをしなけりゃならん事もある。恥ずかしい思いをしなけりゃならん事もあるけれども、そのいうなら根本のところを分からして頂いたら、お礼を言うより他にはない。本当に神様がこの様にしてお育て下さる事の事実が分かったら、その事に対してお礼を申し上げる他にはない。そう言う事が分からしてもろうていよいよその成り行きそのものを大切にして行く。
 こりゃ昔椛目の時代でしたが、ある方が先生あなたは本当にこの成り行き成り行きと言うて、成り行きを尊ぶとか大切にするとか仰るんですが、かぁ例えての事をお聞きしたいんですがというて言われた方があった。どう言う事でしょうかと。例えばね爪が伸びます、ならこれもこう伸び放題に伸ばす事が、成り行きを大切にする事じゃないでしょうかと言う訳でした。髪なら髪も伸び放題、是だからと言ってもその通り。
 だから合楽で言われる成生行きを尊ぶとか大切にすると言う事を、そういうまぁ理屈から言うたらそうかも知れませんけれども。そこには例え爪が伸びたら髪が伸びたら綺麗に散髪もする、爪もとる。垢が付いたら綺麗に垢も落としてく。と言う事が成り行きをいわば大切にする事なんだ。お金を貸してくれ成り行きだからはぁどうぞと貸してやる。その人がもうみすみす、それによって却っておかげを落とす様な事になってはならない、時には貸さない事が本当なんです。
 と言う様にまぁ私共の信心生活の中には、様々どれが本当かちょっと迷う様な事もございますけれども、段々おかげを頂いて参りますと、ここはこうあるべきだと段々はっきり分かって来る様になる、それを実験実証させて頂いておる内に育って来るのは、いよいよ神恩報謝の心である。神恩に対してのそっきはと言う事は皆んな言うけれども。報謝し奉ると言う事はあんまり実行しない。それは神恩が分かっていないのと同んなじである。神恩が分かったらそれに対し奉って。
 報謝の生活がでけ神恩報謝の生活がでけ、それがだんだん育って行く。それがだんだん大きなものになって行く。隣近所の事は言うに及ばず、天下国家の事までも、いうならば祈らずにはおられないと言った様な心が育ってまいります。それは御理念にもとづく生き方をさして頂く、実験実証さして頂いて、神様のお心の奥が分かる。神恩に対し奉ってお礼を申し上げる。これも何か読んでもらっておる中に、何か体の全然不自由な人が沢山な詩を作っておる、と言う人のお話を誰かがしておられましたが。
 誰かがテレビで紹介しよったんでしょうか。「悲しみを有り難う」という詩を、その人が作っておると言う話をしておりました。悲しい事になった、けれどもそのおかげで、こういう幸せな心の状態が開けてきた、と言う様な意味の事だったように思いますが。本当に私共信心させて頂く者は、教祖様が仰るように、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられるのであるから。その喜びの追求。ご理念に基づくとその喜びの追求なんです。
 御理念をいろいろけしていくと、そこに限りない喜び、いや限りないおかげの世界が開けてくる。限りないその喜びがいわゆる育って行く。内容はいわゆる神恩報謝の心がいよいよ大きく育って来る。一遍よく自分の信心を振り返ってみなければならない。果たして自分は神恩報謝の心というものが、どういう奉仕の姿で現れておるのだろうか、そして自分の信心のまだまだ幼稚である事やら、まだしい事を分からしてもろうて、いよいよ御理念の実験実証。
 本当に誰の前でも御理念の素晴らしさを、自分の体験を通して素晴らしいと語られれる信心。しかも信心をすれば一年一年有り難うなって来ると仰せられる、教祖様の御教えをそのまま、段々年を取れば取るほど、一年一年有り難い心と神恩報謝の心が育って来るような、そういう確かなものを心の中に頂いて行く信心でないと、信心の稽古をしておると言う事にはならないと思う。
 長年何十年日産が出来たり御用が出来たというだけで、年を取る度に寂しくなる様な信心では、いかに御理念を実験しとらんかと言う事になります。ご理念の実験はもう必ずそれが血肉になります。必ずそれがおかげにつながって行きます。必ず心の中にその喜びは大きく育って参ります。成程一年一年有り難うなって行くのです。その有り難いと言う心に有り難いと言う心におかげがある。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びにはでは苦労はさせんと仰せられる。おかげをどうでも頂きたいと思います。
 若い時にまぁだ五体が自由な、元気はつらつとしておる時にはね、そう感じませんけれども。段々年を取って参りますに従って、それも叶わん様になってからでは遅い、若い時にしっかりお参りが出来ておる時に、お参りが出けりゃ、本当に教えの実験者実証者としての喜び、そういう楽しみをいよいよ身に着けて行けれる、一つの基礎土台というものを作っておきたい。そして自分の心の中に神恩報謝の心が、どのような形で現わされ、どの様にして現わさして頂いておるか、それが自分の信心のまぁ実態がね。
 ですからその心が神恩報謝の心がね育っていたかどうかを、もう一辺確かめ。いやお参りをさして頂いて、おかげを受けると言う事は、あるぴじゃないですけれども、私が若か時にはもう朝は参りでどもちゃんとするとに、もうこん位なもんではすぐおかげを頂いたばってん。もう年を取ったけんまいられんけん、それも出来んというて悔やんだ人があったという。そんな事じゃない信心はね。若い時にしっかり信心の何たるかを体験さしてもらい、日々をいわゆる実験実証させて頂いて。
 いよいよ神恩報謝の心が育って行く事の楽しみに、終生の終生一生の信心として頂きたい。この喜びを魂の世界に持って行けるんだと、確信が出来るところに終生のいうなら、安心も出来る様なものであります。もうとにかくその教えを血肉にして行く事、実験実証さして頂く事、そしてただ御理念に述べられてある事が素晴らしい事だと言う事じゃなくて、いわゆる体験を通して素晴らしいと、信心をいよいよ積み上げて参りまして、本当の安心の信心を身に着けていきたいと思います。
   どうぞよろしくお願いします。